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ITを捨て、書を持ち、旅に出よう。


 久し振りに渇きを覚えた。それは怒りにも似た渇きだった。
無性に精神(こころ)が渇き、その渇きをどこかにぶつけたくて、昔はよく彷徨ったものだ。恐らくそんな時は三角な目をし、足速に歩いていたに違いない。そんな顔を見られるのが嫌で、外に出る時はサングラスをかけるようになった。「片目のジャック」がもう一つの世界を見ないように、いつも片目に眼帯をしていたように。
 だが、ぶつける相手はもういなくなった。渇きを覚えることも少なくなった。それだけ歳を取ったのかもしれない。「まだまだ丸くはなりたくない」と思いつつも、気が付けばすっかり牙を抜き、丸くなっていた。

 「書を捨てよ、町へ出よう」と言った(書いた)のは寺山修司だったが、彼がこの言葉を引用したのはアンドレ・ジッドの「地の糧」からだ。
「ナタナエルよ、書を捨てよ。町へ出ようではないか」
そこにはこう記されていた。
 「本を読むな」。魯迅はそう言った。なんという矛盾。なんというパラドクス。魯迅も寺山も読書量では人後に落ちなかったはずだ。その2人が同じことを言っている。「書を捨てよ」と。
 私は昔から魯迅や寺山のよき弟子だった。多読よりは精読、といえば聞こえがいいが、要は遅読だっただけだ。特にここ10年近くは彼らの教えをよく守り、ほとんど本を買わなくなった。書棚を含め収納スペースがなくなったのだ。だから極力買わないようにした。それでも本が溜まっていく。
 もともと物を書く時にあまり他人の文章を引用するタイプではない。書きながら考えていくタイプだから、読書同様書くのも遅い。参考にするのは自分が過去に書いた文章。だから自分の文書はデータベース化(と言う程大袈裟なものではないが)している。

 それでも精神(こころ)は渇く。渇くとイライラしてくる。今がその状態だ。
かといって身近に「水」はない。やむを得ず、他の方法で代替する。カメラを持って野や山に撮影に出かける。花や景色に話しかける。そうして精神を落ち着かせる。
 一時的な効果はある。根本的な解決にはならないが、マスターべーション効果はある。そうして誤魔化してきた。

 私が今よりもっと若い頃、そう、40前後の頃は九州大学理学部の教授とよく飲みに行き、議論をした。互いが互いの渇きを癒すように、何時間も2人で話した。文学を、政治を、社会を。しかし、彼が逝ってもう15年以上。
 以来、私の渇きを癒してくれる相手は本以外になくなった。そして時々、怒りにも似た激しい渇きに襲われることがある。そんな時は書店に行き、書棚を眺め、ページを捲ることで、精神の渇きを癒してきた。

 今回、久し振りに、それも突然、渇きが私を襲ってきた。いままで塞き止めていた堰が切れたようだった。こうなると、やむを得ない。我慢していたが、もう水を飲むしかないわけで、ジュンク堂に行き何冊かの書を買った。
「自由貿易という幻想(エマニエル・トッド)」「世界を騙しつづける科学者たち(上下)」「資本主義以後の世界(中谷巌)」「ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女(上下)」
 E.トッドは最近、私が気に入っている人類学者で、彼の著書は3冊目だ。中谷氏の著書は「資本主義はなぜ自壊したのか」に続く2冊目。前著は構造改革の急先鋒であった中谷氏が自らの誤りを認め、グローバル資本主義とは何かを追求した書である。
 当時、構造改革路線を積極的に推し進め、格差社会を作り上げながら未だ反省の弁もないどころか、まだ構造改革が不十分だと吹聴している輩とは大違いで、氏の真摯な態度を大いに評価したい。

 渇きのきっかけは中野建築システムの会長、中野龍之氏と会ったことだった。
数日前、中野さんから突然電話がかかってきて佐賀まで行くことになった。若木ゴルフ倶楽部を守る会が10年の活動を終え、活動費の残高が約200万円あった。それを東北大震災の被災地復興支援のために寄付することにした、という。その受け付け窓口は佐賀新聞社がいいだろうということになり、守る会の活動を「日本のゴルフ場が危ない!」という形でまとめた縁から、私にも同行をということだった。
 「守る会」の会員でもない私がそうした場に同行するのはどうかと思ったが、久し振りに中野さんと話せるので参加させてもらうことにした。
 佐賀までの往復2時間、その前後も含めると4時間近くの話は楽しくもあり、同社の動きを含めた情報収集もでき、随分刺激も受けた。
 これが呼び水になり、一気に渇きが増したのだった。

 寺山修司も魯迅も「書を捨てよ」と言った。
しかし、捨てただけでは意味がない。その後に続けて「町へ出よう」と呼びかけた。魯迅はくだらない本を読むな、と言った。両者ともに、読書の世界に閉じ籠るのではなく、現実世界の中に身を置くことの重要性を説いたのだ。当時は書斎派が幅をきかせていた時代だから。

 翻って現在はどうか。私が見る限りでは本を読む人は激減している。経営者ですらほとんど本を読んでない。そのことは少し話をすればすぐ分かる。古典であれ文学書であれ、話の中にその片鱗さえ出てこない。これが40代以下となれば古典、歴史書の類はほぼ皆無で、肌身離さず持ち、見ているのはケータイメールかインターネット。要するにデジタル、ITどっぷりだ。
 E.ドットは「識字率の上昇が民主主義を推し進める要因」だと言ったが、現在の日本ではむしろ識字率は低下している。漢字を頻繁に読み間違う首相がいたぐらいだから。
 実は読み書きの低下現象はITの普及と密接に関係していると考えているが、そのことに関してはまた別の機会に譲りたい。

 いま必要なのは「書を捨てる」ことではなく、「書を持つ」ことだ。
書を持てば思考が深まる。ITはコピペ(copy & past)の世界、検索の世界で、自ら思考する力をどんどん奪ってきた。その結果、人と話をしても触発されることがなく、人と会い、話をすることが渇きをますます増すという悪循環に陥る。
 何時間話しても話が尽きない、ますます興味が湧く。そんな感情を久し振りに思い出させてくれた佐賀行きだった。

 最後に若き経営者(とりわけ40前後の)に言いたい。「ITを捨て、書を持ち、旅に出よう」と。ちょっと前なら「パソコンを捨て」でよかったが、最近はモバイル全盛。パソコンを捨ててもモバイルを持ち歩けば同じだ。ITを書に替え、旅に出て違う景色を見、自分の頭で思考することが大事だ。


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